質問にお答えします-第13回-

2014年7月17日 | By mori | Filed in: 心理学(2014年度).

(全文を読む場合はタイトルをクリック) 前回の授業では、ピアジェの発達段階を詳しく追ってみました。各段階での特徴と、そういう特徴がどういうテスト(実験)や日常現象によって裏付けられるかを、しっかり把握することが大切です。また、身近な子供たちの振る舞いを観察してみるのも楽しいと思います。では以下、前回の授業内容に対する質問への回答です。

Q1. 子どもは小さいとき自分の体の大きさや、どんなものに行為をしたらどんな反作用があるのかわからないと言っていましたが、どのくらい成長するまで行為と反作用によって学習を続けるのでしょうか。

A1. 質問文に足りないところがあるように見えます。推測するに、多分、子供が自らの身体の範囲を知るまでに、どれだけの期間学習を続けるのか、とまず尋ねているのだと思いました。そしてさらに、行為に対する反作用による学習はいつまでなのかと聞きたいのでしょうか。こう解した上で回答します。

環境と身体が別個のものであることを知る年齢については、大澤真幸さんの「身体の比較社会学1」に書いてあったなぁ……。そして、環境への身体による働きかけ(長じては表象に対する操作も加わります)と、その反作用によって学習を続けるのは生涯です。

期待した回答と違ったらすみません。私は察しが悪いので、質問文でしっかり説明してもらわないと、わからないのです。スマソ….。

 

Q2. 前操作期の子供は保存問題で間違い、具体的操作期になると間違わなくなるとありましたが、実際に子供に保存問題を出してみて、間違えたときは正解を教えてあげたほうがよいのでしょうか?

A2. 可逆性という、この世界の法則がそもそも見いだせないゆえに、保存問題に間違うのだとすれば、正解を教えてあげることは子供に何をもたらすと思いますか。そもそも、この世界の仕組みが理解できない子に正解だけ教える…..。

授業で、無限の話をしました。「自然数の数(正確には「濃度」)と実数の数、どちらの方が多いか」と問いましたね。形式的操作ができないと多分理解できないと思います。答えは「実数の方が多い(濃度が高い)」です。今、正解を教えましたが、どうですか。なぜなのか、理解できますか。

 

Q3. 前操作期で、自分の視点からしか物を見ることが出来ないことを「自己中心性」とおっしゃっていましたが、それは本当に具体的操作期に入れば消滅し、脱中心化をするのでしょうか。大人になっても自己中心的な性格になってしまうのは、自己中心性が残り脱中心化が出来ていないということと考えられないのでしょうか。

A3. 授業中念を押したことがありました。自己中心性と、いわゆる「ジコチュー(自己中心的な性格)」は違うので、混同しないこと、と。自己中心性は、自分の身体の位置に中心化することなのです。とは言え、ジコチューの起源が自己中心性にあるかどうかは、一度じっくりと考えてみた方がよいですね。

繰り返しますが、自己中心性とは、中心化が自分の身体に生じてしまい、自分の身体を起点にしてしか世界を見ることができないという、認識のあり方です。さて、このような認識特性に、「自己中心的性格」の起源を求めることができるでしょうか。考えてみて下さい。

 

Q4. 具体的操作期になると、可逆性が獲得されるので保存問題で間違わなくなります。とプリントにありました。

前操作期でも、保存問題を理解するのは不可能なのでしょうか。ここで、添付ファイルを見てください。例えとして、保存問題の量について取り上げます。[添付ファイルをブログに貼付ける方法がわからないので、以下言葉で説明します] AとBは同じ円柱コップ、Cは三角錐コップです(板書しましたね)。AとBは隣り合って、並んでいます。BにはAの三分の一しか入っていません。そして子供の目の前で、BからCに中身を移します。

前操作期に、BとCは同じ量だとわからせるために何度も可逆を行えば、子どもはBとCを同じ量だと理解することができますか。

A4. 質問に手を入れました。添付ファイルをブログに貼る方法がわからないので、言葉にしてみました。YouTube だと、各自URLから視聴することができるんですけどね。そうでない場合は、お手数ですが、文章表現でなんとかして下さい。

この問いに対しては、Q2への回答と同じことを返しておきたいと思います。

 

Q5. 感覚運動期(0~2歳)の子どもについての質問です。感覚運動期では「見えたものがすべて」という特徴であると聞きました。例えば、子どもの目の前にいた親が、突然子どもの視界に入らない位置に移動するとします。そのとき子どもは、「親はこの世界にもう存在しない」というように感覚運動期の子どもは、親だとしても見えなくなると存在しないと思ってしまうのでしょうか?

A5. 物の永続性が獲得されていなければ、YESと答えるしかないと思います。多分質問者も、こういう回答なのだろうと思ったと思います。それでもなぜ、あえてこの問いを投げたか。どうしてですか? ここを書いてほしいのですよ。ただ聞いたことを鵜呑みにするのではなく、自分で考えたのですから。Q2、Q3、Q4もそうだと思いますけど、既存の回答のどこに、なぜ疑問を感じているかを書くべきです。学問の発展は、既存の答えに疑問を持つことから始まります。その入口にいるのにもったいないですよ。

親が見えなくなることが存在しないと同じだとすると、子供は親を失ったように感じないのか。それで泣いたりしないのか。こんな風に思ったのかと思いました。

 

Q6. 小学校のお受験に保存問題や三つ山問題を出題する目的は、ひとあしさきをいっている子どもを採りたいからであるのではないかと聞きました。周りの子より早い時期に保存問題や三つ山問題をできてよいことはあるのでしょうか?

A6. こういう問いの表現をするときは、たいてい反語表現にとられます。つまり、「よいことはないですよね」という回答を期待している。もしそうであれば、早期に保存問題を達成することが、どうして価値あることと思えないのかを書くとよいと思います。世の中に対する疑問も、世の中をよくするための第一歩ですから。

もし反語でなければ、単に「よいのか悪いのか」が知りたいということになります。これは物事の価値に関する問いになりますが、あなたはその価値に疑問を持っている、少なくとも戸惑っているということになりましょうか。それはどうしてですか。自分の疑問にさらに突っ込みを入れることで、その問いは深くなり、それだけあなたのものの見方も成長すると思います。そういう機会を逸しないようにして下さい。

で、どうですか?

 

Q7. 年齢を重ねることによって知能は発達しますが、一番発達しやすい時期はいつ頃でしょうか?

A7. 「発達しやすい時期はいつか」という問いが、何を意味しているのかわからないのですが、「転換点はいつか」という意味であれば、例えば感覚運動期と前操作期の切れ目は、義務教育への就学前後です。こういうことが聞きたかったのかな?

 

Q8. 今回の授業で出てきた中心性についてです。中心性では、他者の視点がとれないという所が指摘されていましたが、中心性を克服すれば(抽象概念によって物体を捉えることが出来るようになれば、個人差はあっても)物事を様々な視点で捉えることが出来るようになるのでしょうか? (例えば物1つでも、生産者と消費者側に立って考えることができる)

A8. まず注意してほしいのですが、中心性を克服することは、抽象概念によって物体を捉えることには直結しません。多面的にとらえられるようにはなりますが、多面的とは抽象的を必ずしも意味しません。論理は正確に展開しないと(このように、仮定を付与して行くと)、問いも間違ったものになります。

ピアジェが言う中心性が、知覚レベルにとどまらず、思考や推論のレベルにも通用するのか、よくわかりません。Q3にもありましたが、自己中心性とジコチューは関係あるのかとか、実はよくわかっていません(というか、私が知らない)。

中心性の克服は、いわゆる物事の多面的な見方(あなたが述べているような、異なる立場や見解を理解することができる)の必要条件ではあると思います。しかし十分条件ではない。中心性が克服できていないと、多面的な見方はできないが、中心性が克服されていれば多面的な見方が必ずできる訳ではない、ということです。ただし、これも推測なので、本当のことはわかりません。

 

Q9. シェマは図式と訳せるが、シェムは環境に関する知識構造ですが、もっと簡単な訳はないのでしょうか?

A9. 「シェムは環境に関する知識構造」ではないですよ。「行為のレパートリーの知識構造」です。簡単な訳があれば、使用されていると思いませんか。原語のまま使用されているということは、一般的には「適訳がない」「無理に訳すと誤解が生じる」ということの証しです。そういうとき、学者さんは一生懸命訳語を考える訳です。だれかシェムの訳語の開発者になりませんか。

 

Q10. 三山問題などについて、11歳以後になっても自己中心性で考えてしまう人は形式的操作期の段階にいたってないということでしょうか?

A10. 自己中心性が維持されているなら、形式的操作期に入っていることにはならないですね。こういうことが聞きたかったのではないと思います。

もっと単純に「三山問題などで、11歳以降になっても間違う人がいたとする。そういう人は、形式的操作の段階に至っていないということなのか」と、問いたかったのではないかと思います。

こちらで勝手に想定したあなたの問いに答えるとすると、形式的操作段階が完全に達成されることはあまりないようです。私たちは、どこかで具体的なものを手かがりにしないと、抽象的なことの理解も難しいようです。説明に際して、「例えば」といって例を挙げることが功を奏するのも、そのためではないでしょうか。

 

今日の一句

[その壱] 知能はね  ねんれいごとに はったつし けいけんだけで こえられないよ

[コメント壱] ピアジェの発達観は、発達には成熟が必要というものでした。ところで、かんじでかけるところをひらがなにしたのには、なにかいみがあるのですか。

 

[その弐] 属性に 焦点あてる 中心性

[コメント弐] 言いたいことはわかります。中心性とは、対象のひとつの属性のみにとらわれてしまうことでした。わかっている人であれば、このような意味だと解釈できますが、わかっていない人には誤解を与えかねない表現です。中心性とは「属性に焦点を当てること」ではなく、「『ひとつの』属性に焦点を当ててしまうこと」ですね。「今日の一句」は、投稿者の理解を示してもらうものではなく、その句を読んだ人が学説等の理解を深められるように、作成することを期待されています。

で、このようにしてはどうかと思います。「単一の 属性のみに とらわれる 中心性とは これを言うなり」ってのはどう?

 

[その参] 特定の 属性だけだ 中心性

[コメント参] これもおしい。「特定の属性だけに焦点が当てられること」と、解せるような表現にするとよかった。

 

[その肆] 永続性 動かぬものは なくならない 今はつまらぬ いないいないばぁ

[コメント肆] お、いいですね。物の永続性が獲得されると、いないいないばぁも子供の興味を引きません。

 

[その伍] 知ることは シェムとシェマだと ピアジェ説く

[コメント伍] うーん、微妙。行為(操作)とその反作用によって、この世界の仕組み(法則)を知って行くことが、「知ること」の発達なのですが。シェマとシェムは、この作用-反作用の循環によって、個体内部に構築される知識構造のことなんだよね。「知ること」によって、個体内部にできあがるもののことなんですよ、シェマとシェムは。

シェマとシェムを使いたかったら、こんなのはどう? 「知ることで 豊かになるよ シェマとシェム」。「知ること」を定義する句であれば、「知ることは 同化と調整 繰り返し 世界の法則 見つくことなり」てはのどう?

 

[その六] 見えるもの それがすべてさ 俺たちは

感覚運動期(0~2歳)の子供たちは見えているものが世界のすべて。見えないものは存在しないという意味です。

[コメント六] その通りなんですが、一句の中に、どの発達段階かが触れられていないので、読者はそこを自前で補わないといけません。感覚運動期ですよ。忘れずに。それにしても「俺たちは」って。全員男ということでもないのに。ジェンダーフリー論者が怒りますよ。(笑)

 

情報提供、感謝します

提供1] 一つの動画をご紹介します。

http://youtu.be/XxwrMeOJG2o

物の永続性についての実験映像です。おやつをおいて、布で隠してしまうと、感覚運動期のこどもたちはおそらく見つけられないですよね。犬にするとどうなのか?という実験映像でした。この犬の場合布の下にあるとわかっているので、人間でいうと知能の発達段階は2歳以上になります。ほかの犬がどうなるかは、わからないのですが。

[コメント1] お、犬のくせに、なかなか賢いじゃねーかと思いましたが、その結論はちょっと待ったです。

あなたが言うような結論を出すには、まだいくつか確かめるべきことがあります。まず、犬に見せているものが、食べ物のようであること。においがしますね、多分。犬は嗅覚が鋭いので、物が見えなくても、においが残っていれば、物はそこに存在するも同然なのではないでしょうか。動物を例にとる場合、その動物の知覚世界の特徴をまず把握しないといけません。犬は人間的に言うと、弱視、色盲だそうですよ。あまり視覚には依拠していない。こういう動物に、視覚をたよりにする物の永続性実験を行なって、人間と比較しても、正確な結論は出せないと思います。

さて、どうやったら、犬に物の永続性があるか判明するでしょうか。実験を考えてみて下さい。こうやって科学は発展して行くんですよ。

 

[提供2] 前回の私の質問で、「うつ病」と「パーソナリティー疾患」についての回答で、どういう行動が出るとき、「うつ病」や「パーソリナリティー疾患」と言えるのか、翻訳し考えてみてとありましたのでご報告します。

「うつ病」について。

参考文献『学習性無力感』 C.ピーターソン、S.Fマイヤー、M.E.P.セリグマン 著者 津田 彰 監訳

どんな行動をしているときに「うつ病」と言えるのか

6章 学習性無力感と抑うつ P201~P203

まずは「抑うつ」について

著書によると、やらなければならない課題があっても、自ら進んで行わない。妨害があると諦めてしまう。選択肢があると優柔不断で決めることができない。死についていつも悩み、自殺行動までもしてしまう。抑うつの人が1つか2つの動機づけを持っている。

「うつ病」について

「うつ病」の人は、欲求が減る。食欲・性欲・人付き合いなどが減ってしまう。愛する人がいても放置してしまう。以前は楽しかった活動も、楽しくなくなってしまう。寝つきが悪く、睡眠が持続できないなど、生理的な側面にも表れる。そのほかに、無価値観、思考力減退、上記の抑うつ気分、自殺や死への囚われなどがあります。これらのほぼすべてを満たすと「うつ病」にと判断されます。

つまり、求めているものが何もない状態で、自分には価値のない人間だと考えたり、考えてもすぐに諦めてしまい、いっそ自殺したいと考え、実行しようとする人(または実行した)人のことを「うつ病」と呼ぶのだと考えます。

[コメント2] 前回の質問というのは、第11回のQ3ですね。特定をお願いします。

あなたが参照している著者の一人セリグマンは、学習理論の観点から、いわゆる心の病の治療を試みる高名な研究者です。

さて、前回のあなたの質問への回答でお願いしたのは、「うつ病の人がどういう行動をとるか」ではなく、「どういう行動をしている人がうつ病と呼ばれているか」ということでした。行動主義的に再定義をして下さい、というお願いでしたね。

この本の記述は、「うつ病の人はこういう人だ」という書き方になっており、行動主義的にはさかさまです。「・・・という人を、俗にうつ病と呼んでいる」のような記述をすることが、行動主義的です。この本がそうなっていないのは、本書が行動主義を全面に出した本ではなく、臨床的介入を主眼としたからだと推察します。本の作り方自体は著者が決めればよいのですが、あなたはこの本を参考にしながら、行動主義的な再定義を試みてくれたようです。「つまり」から始まる、最後の段落がそうですね。「求めているものが何もない状態で、自分には価値のない人間だと考えたり、考えてもすぐに諦めてしまい、いっそ自殺したいと考え、実行しようとする人(または実行した)人のことを「うつ病」と呼ぶ」の部分が、あなたの回答だと思います。

「・・・ということをしている人を、うつ病という」という形式になっているので、大体よいのですが、厳密に言うと行動主義で禁止されている語が入っているので、さらなる工夫が必要です。「求めている」「考える」「諦める」等ですね。さて、これらも含めて厳密に定義すると、どうなるかな? あくまで行動の言葉で、心に類する用語は使用せずに定義することが、行動主義的です。結構難しいよね。


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